動物堂という珍獣を扱っていたショップの飴屋法水さんの著書。始終、乱暴な言葉をたたきつけてきます。でもそれは、本質をついていて納得させられてしまいます。
「動物を飼うというのはどういうことか」
それは売春や、愛人をかこったり、キャバクラで、お気に入りの娘を指名するのと同じ行為だと言い切ってしまいます。本来、お金で買うべきでないものを買うといううしろめたさを抱えている行為だと。
自分の性欲を満たすために、相手に商品価値があると認めればお金を払う。ブスやおばさんはいやだけど・・・・(笑)女を買うのは、女好き。動物を買うのも動物好き。
しかし、そこに違いがあると。動物好きに悪い人はいない。動物に愛情を注いでいる人に送られる賛辞(?) でもそれは、大うそ。自分の欲望を押し殺せないにすぎないことで、動物好きは自然好きというのは幻想。本当の自然好きは、動物なんて買わない。そんな言葉の一つ一つが、ずっしり響いてきます。
-----------------------------------------------------
動物売買。 それは、若い女性だけ集めたミスコンと同じで、そこに値段をつけて売りにだしているようなもの。
商売の基本は、商品価値の高い物、売れる物を売る。それはわるいことじゃないのに、人間や動物に値段をつけ、売ったり買ったりすると、うしろめたさを感じる。 その違和感は何なのか。それは「物」と「生物」との本質的な違いによるといいます。
人間を商品とすることへの抵抗って何なんだろう?人はそれぞれであっていい・・・・私は私、人は人。自分の愛する人が一番だし、自分の子供が一番。そこに優劣や商品価値基準はない。
人工物は人間のコントロールが可能です。こんなものを作りたいと思って作り、それが評価されなければ、工夫し改良していきます。しかし、人間は改良できません。それは「運命」といえます。チビ、ブス・・・・・・これは、与えられてしまった運命。
子供は運命の産物。だから親は生まれてきた子供の運命を引き受けるしかありません。その運命をひきうける以上、その運命に、価値があると思わないとやってられなくなるから。
そして、この「運命」というのは「自然」と同義語だといいます。人間のコントロールの及ばない領域。人間は、人工物を作り、それに囲まれ、人工的な暮らしをしています。しかし、人間そのものは、人工物でなく、自然の力の産物なのです。どこまでいっても、「自然」の一部にすぎません。オシャカ様の手の平の上にいるのと同じことなんです。
恋愛、SEX、子育てと同様、自然の領域にあるものに、 値段をつけるべきではない。動物売買は、本来、値段をつけるべきでないものに値段を付けて取引される。自然の領域にあるものに、値段をつけるということは、その個体の価値にでなく、その動物を部屋に持ち帰る権利の値段だと思って欲しいと。
------------------------
動物の売買を、このような言葉で語ること。自分の携わる商売を自嘲ぎみに語りながら、本質をついてくる語りに、自分の暮らし方を責め立てられてもいるようで、息苦しさを感じる一方で、なるようにしかならない。という開き直りも感じさせられていました。
幼い時から、動物と関わってきた方です。3歳の時に、始めて飼ったカメの死に遭遇し、幼稚園の時、庭でニワトリをシメ、その後、ありとあらゆる生物を飼いまくったそうです。
そして、高校で美術、放送部、演劇部、園芸クラブ。その後、「狂った動物としての人間」「動物と人間の違い」をテーマに演劇、美術、音楽、映画作品を発表。ベネチアビエンナーレ参加を最後に動物商になったという異色の経歴。
語る言葉の一つ一つが重いのです。
動物を買うということ。 このことは、今、自分がかかわっている植物を買うことにも通じているように思いました。植物好き=自然を愛している。 本当に自然を愛するなら、無理に自分の手元に、引き寄せようとはしないのです。本来、あるべき姿、あるべきところにあるものを愛でるはずです。
手元に置きたい。それは、人間のエゴにすぎないのです。言葉を換えれば、性欲と同じ・・・・・ 深すぎます。
------------------------------------------
動物の選び方に関するレクチャーページがあります。これは、動物だけでなく、植物やモノ選びのエッセンスに思えました。欲しくて欲しくてたまらない。その時、その気持ちとどう向き合ったよいのか。物を選ぶ時、つきあう時のヒントがそこにいっぱいあるように思いました。
「本多弘美のみるみる収納力が着く本」のコラム「黄金のものさしを持つ」(P133)で、飴屋さんの言葉をお借りしています。
どうしても欲しいブランド品がありました。さて、どうしましょう・・・・・・
コメント