何気なく見ていた新日曜美術館のテーマが「描かれた橋」でした。
絵画では数多くの橋が描かれており、その橋が意味するものは? その描かれた場所を散策しながら探る番組で、花博で見たモネの庭の橋も取り上げられたりと、とても興味をひく番組でした。
隔てられた空間をつなぐ橋は、絵画のみならず、文学、音楽などのモチーフとなり、橋が意味するものは、場所と場所をつなぐだけでなく、天と地、過去と未来、芸術を通して神の世界・・・・・様々なものに対しての架け橋の意味を持ち、西洋と日本との捕らえ方などにも触れられており、興味深い内容でした。
偶然にも、先日、花博のモネの庭で見たVTRの内容からの広がりがありました。直接的ではないけれども、日本の版画がモネの絵に影響を与えていたということ。それについては聞きかじっていたのですが、その具体的な例を、モネの絵と版画を対比させての説明でした。
モネは直接的にその手法や表現方法を取り入れはしませんでしたが、形を変えて取り込むことをしたそうです。一方、新日曜美術館で紹介された、ゴッホの描いた橋。安藤広重の『名所江戸百集:大橋あたりの夕立』を、そのままコピーすることを試みたそうです。
コピーを試みたにもかかわらず、そこに描かれた橋は、全く違う捕らえ方がされていました。同じ橋でありながら、広重の橋は象徴的なものとして捉えられているのに対し、ゴッホの橋は、構造物としてとらえられており、コピーでありながら別ものになっているといいます。また、そこに西洋と日本との違いが、明らかに浮き彫りにされたともいいます。
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今、モネの庭を模倣するということを通して、同じことがなされているのだと感じさせられました。同じものを作ろうと思っても、同じものはできないという現実にぶつかるのだと思います。
モネの庭に関して、建物が安普請といった声はあるものの、来場者の評判はまずまずのようです。一方、真似は所詮、真似にすぎない。あちらの庭をそのまま持ってきても、そこには無理があるという声もありました。ご尤もな指摘ではあると思うのですが、そんなことは、かかわった方もご承知なのではないでしょうか。
ゴッホが広重の絵を真似て、そこに描き出されたものが、全く違ったように、日本でモネを真似ることによって、真似しきれないという現実の中に、違いが浮き彫りにされ、日本でのあるべき姿が、見出せるのではないかと思われていました。
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仕事を進めていく中でも似たようなことがありました。同じ素材を使う。同じアイデア紹介する。それが果たしていいことなのか。そんな壁が目の前に立ちはだかった時、一緒にお仕事をしていたライターさんの言葉。「同じ素材、同じアイデアであっても、それを使う人によって、形は必ず変わるものだから」
「コピーが本物を越えてしまうこともある」そんなことを言っていた人もいたなぁ・・・・・・・
「日本のハンギングバスケット資材、イギリスを越えた」なんて、伊藤忠商事の方、言ってたし・・・・・
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実物を見ていないのでなんとも言えないのですが、見覚えのあるモネの絵のあの場面。この場面。それらは、こんな空間構成になっていたのか・・・・・そんなことがわかっただけでも、私には意味を持つ場所でした。さらに、絵画の見方への興味を誘ってくれたことに対しても。きっかけは、いろんなところに転がっている・・・・・・
久しぶりに見た新日曜美術館、面白い切り口だなぁと思いました。「橋」がキーワードとなって、あちらへこちらへの広がり。絵画に興味がない者も引き込んでしまう内容でした。
どこかに出かけて何かを拾い上げると、なぜかその話題がテレビや雑誌などに取り上げられるのを感じたことがあります。
12年前、ハウステンボスに行ってシーボルトに触れたのが始まりでした。戻るとシーボルトについての情報がなぜか、届くのです。これは偶然かに思っていたのですが、なぜかその後もそうしたことが続くのです。
ある時、気づきました。一つのことを知ることによって、その回りに存在していた関連することが、見えてくるため目につくからだったのです。いつでもそれらは回りに、転がっていたのだということ。
庭作りから印象派の絵を知り、モネを知り、そこにかかる橋の由来を知りました。さらにモネの日本贔屓を知り、そのコレクトされていたという版画に、今回取り上げられた安藤広重の橋もありました。その橋を模写したゴッホ。模写しきれない「橋」から読みとれるもの。
その違いを明らかにするべく、さらに日本と西洋の画家がとらえた「橋」を追いかけ紹介されていきました。
その紹介された「橋」の中にもまた、これまで私が訪れた場所が登場したのです。岩国のギボウシ見学の帰りに、せっかくだからと渡った錦帯橋でした。
ナビゲーターでもある評論家の方は、なぜ自分が橋に興味を持つのか、幼き日に見ていた風景について語られました。
川の近くに住み、そこから橋のある風景を見ていたそうです。虹を見ては橋に重ねて。そのあとも、なぜか川に縁があり、川縁に住んで過ごしてきたそうです。
そうした原風景のようなものが、今の興味へとつながっているとのこと。川から様々な橋の風景をご覧になっていたそうです。
紹介された錦帯橋は、登って下るを何度か繰り返します。その高低差によって見える景色が変わります。一番高いところから見える景色、低いところから見る景色。低いところからは泳ぐ魚も見えます。確かに渡りながら あっ、魚、魚とはしゃいでいたことを思い出します。
そして橋を下から見るという視点をご紹介されました。河原から見るその橋は全く違う表情を見せてくれます。ぜひ、錦帯橋の裏を河原から見て下さいと。
視点の移動。橋を下から見るという視野。その視野は子供の頃にご覧になられた風景に大きく影響されているたのでした。川を泳ぎながら橋を見上げていたそうです。
そういえば、花博でみた酒井さんの庭も、子供の頃の天竜川がモチーフとされていました。同じ景色を見て育った人には、そのイメージが感覚として伝わってというのも驚きです。
過去に見た景色、過ごした風景は、今の自分となにがしかのつながりを持って存在していて、同じものを見て育った人の間には、言葉なくて伝わってしまうのです。
私がこの庭を見て、感じさせられていたのものは違うところでした。大きくゴツゴツと組まれた山の岩場からしみ出る清水の流れ。その流れとともに変化し、河原の石へとつながる連続性の中に、時間の凝縮を見ていました。石に込められた時間
これは、ここに訪れる前に受講した「ガーデン装飾」のセミナーがあったから、気づけたのだと思われます。限られた空間の中で時間の凝縮が表現されていること。
と思いながらふと思いました。私は、子供の頃、山登りをしていたのでした。たくさんのゴツゴツした岩場が、その時、無意識に目に焼き付いていたのでした。だから私の意識を引き寄せたのは、岩場の場面だったのでした。だから庭作りの土を考える時も、山と同じ状態を作ろうと考えたのかもしれません。
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浜名湖花博で見たモネの庭。そこに付随した展示物。そこからイメージされるもの。一つのテーマから、あっちにこっちに糸が延びて広がっていきます。この場所は、テーマという分類の元に、切り分けられて、押し込めておく場所のはずなのですが、そのテーマの枠を、どんどんはみ出してしまいます(苦笑)。
要素を見つけて、分類しようなんて、あれこれ考えているのですが、結局は分類なんてできないってところに落ちつくのかなぁ・・・・なんてことをおぼろげに見ながら。
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この番組に関する記載をみつけました(2005/8/10)
「橋」の話
http://www.astrolabel.net/blog/archives/000087.php
Posted by: honda | 2004.06.23 at 09:26
2004.9.28
モネの庭を設計された玉崎氏を偶然、花博会場内でお見かけしたのでお声をかけさせていただきました。
日本の浮世絵の構図と絵画の関連性、睡蓮の絵の視点の変化、絵に込められている世界感、宇宙観。
水面と睡蓮の構成比率。睡蓮の絵の構図の中にある水平と垂直。庭作りにも水平と垂直は反映されており・・・・・
睡蓮の葉による水平。そこから立ち上がるガマ。上からかぶさる柳による垂直。
球根植え付けのためのプランシート。輪転機にかけて版画を刷っていくような感覚。球根パッケージを開けたら、その場、その場で作業を簡潔。でなければどれがどの球根かわからなくなってしまう混乱。
お話は留まることを知らない。
いろいろ伺いたかったのだけれど、次の催しの時間が迫りタイムアウト。今度、セミナーが開催されるので、ぜひ伺わせていただこうと思いました。
Posted by: honda | 2004.10.03 at 10:29