□【連 載】 収納アドバイザーに思う
・(01)収納アドバイザーという肩書き
・(02)収納アドバイザーを名乗ろうと決めて
・(03)我が道をゆく
・(04)自己実現を考える方に
・(05)アイデアを追いかけ続けたら
・(06)オリジナリティーを追いかけ続けたら
・(07)箱を追いかけ続けたら
・(08)本多の十八番?
・(09)箱・箱・箱・箱・・・・・・
・(10)追いかけ続けたら
・(11)センスや感性、感覚って?← 前の記事
・(12)哲学という扉← この記事
・(13)有名になりたかった?! ← 次の記事
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収納アドバイザーという仕事を通して、自分が求めるものを追いかける一方で、庭作りにものめりこんでいきました。当初、両者は、独立したものだったのですが、次第に共通性を見るようになってきました。
どちらが先であったのか今となっては、わからなくなってしまったのですが、なぜなぜの先にあったもの。それが自分にとっては未知の世界であった「哲学」という分野でした。
その昔、高校の倫理社会の授業の時に、聞きかじりした程度で、それがどんな世界なのか、全く未知の場所。
そもそもは、「なぜ、自分は、こうやって考えるのだろう・・・・」ということを考えてしまったことに端を発していまいした。追いかけて、追いかけたその先にあったもの。庭作りを通して追いかけてたどり着いた、今まで自分には全く縁のなかった世界がそこに存在していたのでした。
そこに至る過程において、「神」「宗教」「宇宙」・・・・・今まで、見向きもしなかったというか、ある部分では否定すらしていた、そんな世界も見えてきたのです。庭作りを通して見えた世界ですが、仕事としてやってきた収納という世界も、つきつめればここに至るということに気づかされました。
そして、他のことも追いかけ続ければ、いきつくるところが、ここなのだということに気づかされたのです。全てはつながっていたのです。
その昔、若かりしころ洋食器を集めていたことがありました。先にとりあげたボタニカルアートの先にあったのが、ロイヤルコペンハーゲン、フローラダニカの絵付けでした。当時、悪趣味と思っていたあの絵付けが、ボタニカルアートだったということ。また、好きで集めていたウェッジウッドが、ダーウィンと親戚関係だった。そんな些細なことがきっかけとなって、進化論への興味がいざなわれました。それを追いかけていたら、哲学の世界の扉が開いていたのでした。ダーウィンの進化論なんて小難しくて興味ないことだったはずなのに、きっかけはなんとも、些細なことなのです。
「ソフィーの世界」が注目されることで、で哲学が一般に降りてきた時期がありました。しかしその時、私の関心を引く世界にはなりえませんでした。ところが、自分の興味の先に関わりがあることで、そちらの世界に引き寄せられていくのでした。
新聞の記事を見てこんな書き留めをしていました。(2004.6.19 記)
考えることが、静かなブーム?なのだそうです。 「これでよいのだろうか・・・」を考えることは、日常の自分の言葉で哲学することだと言います。哲学という世界を、こんな至極、簡単に言い表されてしまったことによって、本来、小難しく感じられた哲学の世界のレベルを落としていまったかといえば、そんなことはないといいます。簡単に言い表された本は、読み進めながら、哲学するとう形をとっています。その姿勢を打ち出した本であり、それが本当の哲学なのだと。そんな本が静かな人気だそうです。先行きが見えない不透明な不安な時代、それぞれが、社会と自己を見つめだしたようです。
バブルがはじけて家庭回帰がありました。その時、調味料が売れ土鍋が売れたと言います。そしてガーデニングブームもありました。そして、今、リフォームブームだとも言います。その次には、自分探し。自分の見つめ直し。そんな世界が注目されているのでしょうか?
植物を通して、なぜなぜなぜを考えてきました。そしたら自分に行きついたように思います。なんで、自分はこんなことしてるのだろう。こんなことに魅力を感じるのだろう・・・・そのように考えること、それそのものが哲学することなのだということに気付きした。
今まで触れることなくきた世界の本が目に止まりだしました。「14歳からの哲学」「17歳からの哲学」一部だけのかじり読みですが、その世界を知らないものにとって、導入書としてわかりやすく感じられました。
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モノの成り立ち、由来を追うとなぜ、そのモノにその名前がついたのかを知りたくなります。その入口、きっかけが植物でした。しかし植物だけでなく、全てのものに名前があります。資格を取るために苦労して覚えた人の体の部分部分のパーツ。人の体に名前がつくというのは、境界を作るということです。名前をつけることによって、境界ができるのです。
これは時々、ぶつかる言葉の「定義」という問題に通じています。言葉の定義は「○○とは○○である」と、境界をつけるという行為であり、切り分けるという行為でもあったのです。
ものを伝えるため、ものを表すため、そしてその範囲を示すためにつけられる名称。植物の名前を追っていて、そこに付けられた名前には、日本学名、ラテン名、独名、英名・・・・様々な名称がありました。 しかしこれらは、そのものを認識するために、人の都合で付けられたものでもあるということ。子供の名前も、ペットの名前も・・・・
「14歳からの哲学」の中にもありました。
物に名前があるということによって、考えるということが成立すると。言葉が存在することによって、思考が成り立つ。考えることが成立しているのだといいます。なんだか、ごくごく当たり前のことのようですが、それでいて改めて、それを言われると、当たり前でないことに気づかされた気がします。
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植物を通して見えた哲学という世界が、仕事も同様にそこに通じるものを見いだしました。さらにその先には、仕事だけでなく全ての世界がここに通じているのだということを、おぼろげながら見えてきたように思います。全く未知で関心もなかったところにたどり着き、随分と遠くに来たもんだなぁ・・・・・なんて思っていました。
ところが、こんな声が聞こえてきます。そんなことって、哲学を専攻してた人たちは、その時にすでに、そこにたどり着いてしまってたということじゃない。私が、回り回ってあちこち寄り道して、や~っとたどり着いた場所に、とっくの昔に、立ってた人たちもいたのだということ。
そのことに、どうして気づけたのだろう。その違いは何?とまたまた、考えてしまうのでした。(笑)
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昨年末、人体の不思議展に訪れました。それを見たことで、解剖学というものを探っていました。そこには、ミクロ的なモノの見方とマクロ的なモノの見方がありました。また、局所的なモノの見方、系統的なモノの見方という視点もありました。
解剖学というのは、臓器という形の奧に潜む法則性をみつけることだといいます。つまり「生物体の形態や構造は生物学的法則に支配されている」ことの発見なのだと。個々の形態学的事象を整理し系統だてるところにこの学問の本領があるのだと。
これは「収納が分類」であるということから端を発して、私が進めていこうとしている世界そのもののように思いました。一つ一つを観察し、そこに潜む要素を発見し、共通性を見いだして、そこに法則をみつけ体系づけてゆく作業で、解剖学と同じものをそこに見ていました。
その要素の発見の視点は、ミクロ的であったり、マクロ的であったりします。あるいは、局所的なモノの配置もあれば、作業の流れという、全く別の場所が系統だって関連づけられたりもします。そして解剖学そのものである、「形態」による分類は、収納においても、客観的に判断できる一番のポイントでもあります。モノの形に潜む要素、それは「大きさ」であり「高さ」であり、「物質の状態」つまり液状であったり、、固体であったり・・・・・・
収納の分類は、解剖学同様、ミクロ的、マクロ的、局所的、系統的な視点を持って分類することなのだと気づかされ、こんなところにも共通性があったし、接点があったじゃない。いや、待てよ。この視点は、収納や解剖学だけではなく、物の見方、考え方の基本的な要素がここにあるってことじゃない!?なんて思わされていました。ほ~ら、やっぱり、全てはつながっているのよ・・・・・・・
人体の不思議展を見ていて感じさせられたのは、物言わぬ体。屍。それを目の当たりにしていて、強烈に襲いかかってきたのは、「生きてる体 生きていることの意味」でした。この会場をあとにして、その近くにあった相田みつを美術館にも立ち寄っていました。ここでも、別の方向から生きるということについて投げかけてきます。
あの標本、かつては、声を発し笑い、ものを食べ、体を動かし、考えていたということ。こうして、多くの人に見られるということも考えていたのだろうか・・・・・・そんなことを感じさせられながら、その場所をあとにしました。
様々な世界からたどり着く場所は、ここにあるのだと思いました。生きるとはどういうことか、自分とは何か、それを考える自分という存在。するとどこからともなくまた、聞こえてくるのです。そんなこと、当たり前じゃない・・・・・って
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散策していてみつけたもの。
■シンプルライフのすすめ 連載を終えるにあたって
あれ?と思ってさらに探ってみれば、やっぱり・・・・
■美術評論家・作家 布施英利さん
レオナルド・ダビンチを探求する 死体に学び、創造の世界を凝視
■布施英利の異彩対談 フライ作家・島崎憲司郎さん
私とは、逆方向から歩いてこられた方なのかなぁ・・・・・と。美術の世界から、解剖学へ、そしてその周辺の自然に目を向けていらっしゃる。私は、歩いた先に美術の世界があったのでした。
でもまた、「ほ~ら、こんなこと、すでに言われてることじゃない・・・・・・・」って、またもや聞こえてくる声・声・声・・・・
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□【連 載】 収納アドバイザーに思う
・(01)収納アドバイザーという肩書き
・(02)収納アドバイザーを名乗ろうと決めて
・(03)我が道をゆく
・(04)自己実現を考える方に
・(05)アイデアを追いかけ続けたら
・(06)オリジナリティーを追いかけ続けたら
・(07)箱を追いかけ続けたら
・(08)本多の十八番?
・(09)箱・箱・箱・箱・・・・・・
・(10)追いかけ続けたら
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・(12)哲学という扉← この記事
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そういえば、演劇の世界から、解剖の世界に糸を延ばしている人もいらしたなぁ・・・・
人体の不思議展
→http://www.kanshin.jp/pl/index.php3?mode=keyword&id=274541
どの世界にいても、自分というものに返ってくる。その時、そこに存在しているのは肉体。そして命。生命。再生、誕生、生殖・・・・
そういえば同じ演劇に身を置き、そののち動物を扱い、生き物の世界を追いかけている方がいらした。
飴屋法水氏→水戸芸術館 「日本ゼロ年」出品作家
→http://www.arttowermito.or.jp/art/zeroartistsj.html
>人間を含む生物の生と性(生殖)、そしてそれらを取り巻く社会のシステム(科学、技術、医療、経済、法律、他)を考察してきた。
ものとのかかわりは、生き物とのかかわりに似ていることを教えられたのでした。
Posted by: honda | 2004.04.28 at 18:18
植物の名前、ラテン語の学名を追っていたら、中でも色を表す言葉に興味を持ち出しました。
するとその色の見え方ということに視野が向かいました。するとそこには、色を識別するための網膜細胞という組織学があり、そこで受けた光の信号を神経系を通して脳に伝達するという生理学が存在していることを知りました。
色を見分ける。判別する。その裏には、自分の体自体が持っている機能によってもたらされているものなのでした。
さらに、その色の識別や表現は、その地域の暮らしや文化によって大きく影響されていることもその時に知ったのでした。
参考:趣味から仕事へ 仕事から趣味へ より
■学名から見えた、収納との共通性
→http://nankotsu.net/owl/dantei_owl.html
自分の気づいたこと、発見を何か形にできないかな。そんなことを思っていて探っていると、それはすでに、どこかで語れていたりします。ある時は違う表現で、またある時は、同じ言葉であっても、違う場面が引き合いに出されて・・・・・でもその底に流れているものは同じだったりするような気がします。
植物の形から気づかされた「点・線・面」という形態。それが、旅をする時、訪れるスポットの捉え方として用いられていました。
シンプルライフのすすめより 美しい自然の中で暮らしたい→http://www.chunichi.ne.jp/inpaku/13/ichiran/47_400.html
所詮、人の考えることだから・・・・・すでにどこかで誰かによって、語られているのです。それを自分が知らなかっただけのこと。
じゃあ、私は、それをどうやって形にして表現するのか。それを考えてみることにしようと思うのでした。
Posted by: honda | 2004.04.29 at 06:55
考える自分を考えていた時、「自分の思考は、何によって形成され、どこから来ているのだろう・・・・・・」なんて思っているときに、学生時代に書いたレポートや手紙、教科書に触れる機会がありました。
それらは一連の思い出軍団として封印され箱に入っていました。ここ数十年、開封されていなかったものです。10年も、開けることなくきた箱の中身ですから、これを期に処分してもいいかもしれない。そんなことを思ったのでした。
セミナーでは、「その手の箱の中身は、見てしまうと捨てられなくなりますから、見ないで捨てることがポイントです」なんて言っていながら、いざ、自分が目の前にするとできないものです(苦笑)
手紙やレポートを目の当たりにしていたら・・・・・・・
そこには、今となっては、通り過ぎて過去の出来事として、忘れ去ってしまっていた思考の葛藤や変遷が記されていました。それを見て思ったのでした。
あの時の寄り道が、多少なりとも影響して、今の思考のベースを形成しているのだと。
解剖実習を前にした不安や葛藤。それを乗り越えるにあたって、目の前に立ちはだかった「生きてる」ということ。「生命」ということ。自分の中で原子分裂がおきたかのような、ぶつかり合いがあったこと。
しかしそんな葛藤があったことなど、すっかり蚊帳の外に置かれ、忘れ去られていました。その記録が目の前に現れたことによって、どの世界に身を置いても、最終的にいきつくところが「生きること」であり、「自然に回帰する」といのは、学生時代に解剖というものを経験したことが大きく影響しているのでは?と思わされるのでした。人とはいかなるものか・・・・・・その肉体に一番近い世界が解剖の世界で、そこから生命、命、生き物、誕生、生殖へと広がるのだと今にして思うのでした。
生き物→http://www.myprofile.ne.jp/alaponta+blog+2004+01+3
Posted by: honda | 2004.04.29 at 21:29
10年以上、開かれることなく保存された大学時代の教科書。もうその世界とは縁がなくってるし、勉強すること嫌いだし、今後、開かれることはまずないはずだから捨てよう・・・・
そう思ってから、そこから広がる世界がありました。見ることはないと思った教科書をまた紐解きながら、そこに自分の原点があるを、実感しているのでした。
「序」として書かれている言葉は、数十年という年月を経て、新たに語りかけてるメッセージがありました。それは自分の思考の源を司るものがそこにあったことを感じさせられたのでした。
【解剖学】人体解剖学 序 より
→http://www.myprofile.ne.jp/blog/archive/alaponta/266
Posted by: honda | 2004.04.30 at 00:20
当時、書き留められていた記録の数々、時を経てそれに触れることで、それまで気づかなかったことに気づかされていました。
自分とは・・・・その「自分が考えている」という思考を司る源流にあるのは?それを思ったとき、その端緒となったであろうものが、過去の記録の中に存在しているように思いました。
その時、耳ににした言葉です。(記憶ですが・・・・)
思い出のものを大切に保管している人がいる。今の自分を形成した記録として後生大事に・・・・しかし、ここに今、存在する自分は、それらによって成り立っているのだから、自分の中にその記録は、取り込まれ存在していることになる。それを思えば、昔の記録を大切に保存する意味はない・・・・・・そんな主旨の言葉でした。
自分を知るという過程においてもたらされるもの。その拠り所となった昔の記録。記憶は薄れてしまうもので、あれだけの葛藤があっても、のど元すぎれば状態。それは忘れ去られ、自分の中に取り込まれて奥底に沈んでしまっている。
それを呼び起こさせるきっかけとなるものを、私はやはり捨てられはしないと思ったのでした。
そこで、モノを捨てるときのmyルールができます。「自分のルーツにかかわるものは、すてなくてもよい・・・・」という
大系づける喜び
→http://www.kanshin.jp/alaowl/index.php3?mode=keyword&id=139119
生きているということ
→http://www.kanshin.jp/alaowl/index.php3?mode=keyword&id=139113
実験動物医学研究序説
→http://www.kanshin.jp/alaowl/index.php3?mode=keyword&id=209080
Posted by: honda | 2004.04.30 at 08:01
何年も前のこと。あるグループに属していたとき、そこいる方が発していた言葉を思い出します。年の頃は、今の私と同じだったと思います。
その方は、食べ物を追いかけ、ヨガの世界を追い、ミュージカルを自分で作り出したり・・・・様々なことに興味を持ち、追いかけられていました。
そこで、「最近、思うようになったのだけれど、全てのことは、根っこのところでつながっているってことがわかったの」と。
言葉尻だけを捉えれば、「そんなこと、当たり前よね・・・・」その場に一緒にいた方が発してました。でも、その時、思っていたのは、そういうことではなくて、この方は、もっともっと深いところで、何かを感じて発せられている言葉なんだろうなということ。その意味することは、そのとき、理解はできませんでしたが、いろんなものを見聞きする中で、それを感じることができるようになるのだろうな・・・と感じさせられていたことを思い出します。
今、その方と同じ年齢を迎え、なんとなく、あの時の言葉の意味が、少しわかった気になったのでした。
Posted by: honda | 2004.04.30 at 14:33
哲学の入門書として目に触れた「14才からの哲学」「17才からの哲学」の書評を見ると、解剖学書をあとになってみたのと同様の視線の差を感じていました。
何もわからず、その入り口に立った者が受けとるもの。その入り口の扉を開け、その奥のほうまで巡って一巡してから、戻って来た方が、また入り口に立って見ている視線。
同じ入り口も見え方が違ってくるものなんですよね。
Posted by: honda | 2004.05.01 at 07:47