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2004.04.28

Comments

honda

そういえば、演劇の世界から、解剖の世界に糸を延ばしている人もいらしたなぁ・・・・
人体の不思議展
http://www.kanshin.jp/pl/index.php3?mode=keyword&id=274541

どの世界にいても、自分というものに返ってくる。その時、そこに存在しているのは肉体。そして命。生命。再生、誕生、生殖・・・・

そういえば同じ演劇に身を置き、そののち動物を扱い、生き物の世界を追いかけている方がいらした。
飴屋法水氏→水戸芸術館 「日本ゼロ年」出品作家
http://www.arttowermito.or.jp/art/zeroartistsj.html

>人間を含む生物の生と性(生殖)、そしてそれらを取り巻く社会のシステム(科学、技術、医療、経済、法律、他)を考察してきた。

ものとのかかわりは、生き物とのかかわりに似ていることを教えられたのでした。

honda

植物の名前、ラテン語の学名を追っていたら、中でも色を表す言葉に興味を持ち出しました。

するとその色の見え方ということに視野が向かいました。するとそこには、色を識別するための網膜細胞という組織学があり、そこで受けた光の信号を神経系を通して脳に伝達するという生理学が存在していることを知りました。

色を見分ける。判別する。その裏には、自分の体自体が持っている機能によってもたらされているものなのでした。

さらに、その色の識別や表現は、その地域の暮らしや文化によって大きく影響されていることもその時に知ったのでした。

参考:趣味から仕事へ 仕事から趣味へ より
     ■学名から見えた、収納との共通性
    →http://nankotsu.net/owl/dantei_owl.html


自分の気づいたこと、発見を何か形にできないかな。そんなことを思っていて探っていると、それはすでに、どこかで語れていたりします。ある時は違う表現で、またある時は、同じ言葉であっても、違う場面が引き合いに出されて・・・・・でもその底に流れているものは同じだったりするような気がします。

植物の形から気づかされた「点・線・面」という形態。それが、旅をする時、訪れるスポットの捉え方として用いられていました。

シンプルライフのすすめより 美しい自然の中で暮らしたい→http://www.chunichi.ne.jp/inpaku/13/ichiran/47_400.html


所詮、人の考えることだから・・・・・すでにどこかで誰かによって、語られているのです。それを自分が知らなかっただけのこと。

じゃあ、私は、それをどうやって形にして表現するのか。それを考えてみることにしようと思うのでした。

honda

考える自分を考えていた時、「自分の思考は、何によって形成され、どこから来ているのだろう・・・・・・」なんて思っているときに、学生時代に書いたレポートや手紙、教科書に触れる機会がありました。

それらは一連の思い出軍団として封印され箱に入っていました。ここ数十年、開封されていなかったものです。10年も、開けることなくきた箱の中身ですから、これを期に処分してもいいかもしれない。そんなことを思ったのでした。

セミナーでは、「その手の箱の中身は、見てしまうと捨てられなくなりますから、見ないで捨てることがポイントです」なんて言っていながら、いざ、自分が目の前にするとできないものです(苦笑)

手紙やレポートを目の当たりにしていたら・・・・・・・

そこには、今となっては、通り過ぎて過去の出来事として、忘れ去ってしまっていた思考の葛藤や変遷が記されていました。それを見て思ったのでした。

あの時の寄り道が、多少なりとも影響して、今の思考のベースを形成しているのだと。

解剖実習を前にした不安や葛藤。それを乗り越えるにあたって、目の前に立ちはだかった「生きてる」ということ。「生命」ということ。自分の中で原子分裂がおきたかのような、ぶつかり合いがあったこと。

しかしそんな葛藤があったことなど、すっかり蚊帳の外に置かれ、忘れ去られていました。その記録が目の前に現れたことによって、どの世界に身を置いても、最終的にいきつくところが「生きること」であり、「自然に回帰する」といのは、学生時代に解剖というものを経験したことが大きく影響しているのでは?と思わされるのでした。人とはいかなるものか・・・・・・その肉体に一番近い世界が解剖の世界で、そこから生命、命、生き物、誕生、生殖へと広がるのだと今にして思うのでした。

生き物→http://www.myprofile.ne.jp/alaponta+blog+2004+01+3

honda

10年以上、開かれることなく保存された大学時代の教科書。もうその世界とは縁がなくってるし、勉強すること嫌いだし、今後、開かれることはまずないはずだから捨てよう・・・・

そう思ってから、そこから広がる世界がありました。見ることはないと思った教科書をまた紐解きながら、そこに自分の原点があるを、実感しているのでした。

「序」として書かれている言葉は、数十年という年月を経て、新たに語りかけてるメッセージがありました。それは自分の思考の源を司るものがそこにあったことを感じさせられたのでした。

【解剖学】人体解剖学 序 より   
http://www.myprofile.ne.jp/blog/archive/alaponta/266


honda

当時、書き留められていた記録の数々、時を経てそれに触れることで、それまで気づかなかったことに気づかされていました。

自分とは・・・・その「自分が考えている」という思考を司る源流にあるのは?それを思ったとき、その端緒となったであろうものが、過去の記録の中に存在しているように思いました。


その時、耳ににした言葉です。(記憶ですが・・・・)

思い出のものを大切に保管している人がいる。今の自分を形成した記録として後生大事に・・・・しかし、ここに今、存在する自分は、それらによって成り立っているのだから、自分の中にその記録は、取り込まれ存在していることになる。それを思えば、昔の記録を大切に保存する意味はない・・・・・・そんな主旨の言葉でした。


自分を知るという過程においてもたらされるもの。その拠り所となった昔の記録。記憶は薄れてしまうもので、あれだけの葛藤があっても、のど元すぎれば状態。それは忘れ去られ、自分の中に取り込まれて奥底に沈んでしまっている。

それを呼び起こさせるきっかけとなるものを、私はやはり捨てられはしないと思ったのでした。

そこで、モノを捨てるときのmyルールができます。「自分のルーツにかかわるものは、すてなくてもよい・・・・」という


大系づける喜び
 →http://www.kanshin.jp/alaowl/index.php3?mode=keyword&id=139119

生きているということ
http://www.kanshin.jp/alaowl/index.php3?mode=keyword&id=139113

実験動物医学研究序説
 →http://www.kanshin.jp/alaowl/index.php3?mode=keyword&id=209080

honda

何年も前のこと。あるグループに属していたとき、そこいる方が発していた言葉を思い出します。年の頃は、今の私と同じだったと思います。

その方は、食べ物を追いかけ、ヨガの世界を追い、ミュージカルを自分で作り出したり・・・・様々なことに興味を持ち、追いかけられていました。

そこで、「最近、思うようになったのだけれど、全てのことは、根っこのところでつながっているってことがわかったの」と。

言葉尻だけを捉えれば、「そんなこと、当たり前よね・・・・」その場に一緒にいた方が発してました。でも、その時、思っていたのは、そういうことではなくて、この方は、もっともっと深いところで、何かを感じて発せられている言葉なんだろうなということ。その意味することは、そのとき、理解はできませんでしたが、いろんなものを見聞きする中で、それを感じることができるようになるのだろうな・・・と感じさせられていたことを思い出します。

今、その方と同じ年齢を迎え、なんとなく、あの時の言葉の意味が、少しわかった気になったのでした。

honda

哲学の入門書として目に触れた「14才からの哲学」「17才からの哲学」の書評を見ると、解剖学書をあとになってみたのと同様の視線の差を感じていました。

何もわからず、その入り口に立った者が受けとるもの。その入り口の扉を開け、その奥のほうまで巡って一巡してから、戻って来た方が、また入り口に立って見ている視線。

同じ入り口も見え方が違ってくるものなんですよね。

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