KW:「平和」「広島」/「子供」「絵本」/「データ」「人」「モノ」/「歴史」
いつか必ず広島へ行って、原爆ドームを見る。そして、この悲惨さは、後世に伝えて行かなければけない。そう心に刻んだのは、高校の修学旅行で長崎に訪れたときからです。そののちに、ハウステンボスを訪れた時にも、再度、長崎の原爆資料館を訪れました。そこで遭遇した親子の会話が、今でも耳に焼き付いています。
「すんげぇ・・・・」と騒ぐ子ども。それにお母さんが淡々と話します。「これは、国と国の喧嘩や・・・・」 「○○、 弟の○○が叩いたら、たたき返すやろ」 「○○は、兄ちゃんにたたかれたら、また、たたくやろ」 「そして○○は、また兄ちゃんのこと、もっと強くたたく」 「そうやって、いつもいつも、最後、わ~、わ~2人して、泣きよる・・・・・」 「戦争も、それと同じ・・・国と国のけんか。叩かれたら、もっともっと強く叩く。そして、こんな爆弾、落としたんや・・・」
こうやって伝えている、お母さんがいる。私も、修学旅行で訪れた時、それと同じことを思っていたこと。広島、長崎に一緒に訪れ、その悲惨さを共有する。そんなことが、どこか心の片隅にあり、「ひろしまのピカ」という絵本を買ったりしていたことなどなどが、何かの機会にフラッシュバックしていました。そして、やっと広島のこの場所を訪れることができました。
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本の裏に記載された「S60.7.23 科学博にて」の文字。このときに買った絵本3冊です。子供たちのために・・・・なんて考えながら手にしていた本。すっかり忘れていました。思い出ボックスを、ごそごそしていたら出てきました・・・・・・
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戦後、50年・・・・と騒がれた8年前。新聞、メディアで、様々に取り上げられていました。 「私は貝になりたい」や「月の光」。それらの映画の自主上映が話題になっていました。そして731部隊。知らず知らずのうちにその施設の管理に組み込まれていた兵隊さんによる講演会が開催されることを新聞で知り、出かけて行ったりもしました。その会は、どんどん去っていく、生き証人のかたがたから、記録、記憶に留めようと・・・と地道に活動しているグループでした。
冒頭の挨拶。「今年は戦後50年。そして、この会のことも報じられ、今年は、例年にない参加者数です。しかし、8月のこの時期だけではない。戦後50年の節目だから・・・・・ではない。いつもいつも、そのことを感じていて欲しい。」そんな挨拶が耳につきささりました。それなのに、結局、その会に出たのは、その年だけでした。そして、終戦の日に、ひろしまのピカという絵本を思い出して、触れては見るものの、本を開くこともせず・・・・・・
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そんな身勝手さと隣り合わせにいながら、平和記念資料館 企画展 原子爆弾ナリト認ム の展示物や記録映像を見ながら思うのです。
使命感だけに突き動かされて被爆後の調査活動を行い、その状況を映画に納めた人たちの姿。しかしその意志もむなしく、それらの映像は没収されてしまいます。でも、密かにその映画は保存されていました。彼らの強い意志によって・・・・・
そんな貴重な映画が上映されているのです。1時間半と確かに長いフィルムですが、どうしてみんな、素通りして立ち上がってしまうのでしょうか?後世に残さなければ・・・・・ そんな強い意志によって残された物であるのに。その意思を、今、私たちが受け止めなくていいのでしょうか?!なぜ!と、叫びたい衝動に駆られていました。
なんで?
なんで?
なんで、通り過ぎて行っちゃうの?
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いつか、広島に行かなくちゃ・・・・・高校時代、長崎の修学旅行で心に思い続けていたことが、四半世紀を経て、やっと実現しました。そこにはやはり私たちと同じような修学旅行生がいました。
彼女たちは、夏休みの課題として、この戦争について取り上げたそうです。そして、ここに足を運んだそうです。
外国からも千羽鶴を携えて訪れている子どもたちがいました。 じっと見つめていた私に、1人の女の子がほほえみかけてくれました。コ・ン・ニ・チ・ハ・・・・・と。
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原爆という恐怖と戦いながら残された記録の数々。膨大な数字の後ろにある、被爆者の苦しみ、無念、憤り・・・それらの数字の裏にあるもの。そして物の裏に潜む重すぎる過去。原爆の悲劇を伝える遺品。物と心の葛藤・・・・・ いろんなことが、渦状になって押し寄せてきて受け止めきれません。
黒こげになったお弁当箱(*1)。これによって、息子さんを確認するに至ったといいます。しかしそのお弁当箱の提供は躊躇されていたそうです。こんなお弁当箱は、これだけじゃない。まだまだたくさんあったのだと。このお弁当箱だけがその象徴だと思われたくはない。しかし、原爆の恐ろしさを伝えるために。そんな葛藤の末、提供されたそうです。
伸ちゃんの三輪車
この自転車で遊んでいるときに被爆。遺体を埋葬する気にはなれずに、この三輪車と一緒に、庭に埋めたそうです。40年の月日を経てやっと、堀り上げお葬式をしたそうです。
生証人の声・・・・そして遺品も声なき声を発しています。その収集が始められました。その裏では遺品を所持する所有者の心の葛藤があったといいます。提供するか否かという・・・・・・・資料館にいらしたボランティアさんの言葉でした。
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ちょうど、モノと向き合うというのはどういうことかを綴った本の下原稿を書いている時でした。この葛藤があまりに重すぎました。物の陰に隠され圧縮され凝縮された心。その心との葛藤の末、それがどうあるべきかを選択する。物と心の関係なんて簡単に言い尽くせるものじゃない・・・と立ち往生してしまうのでした。
その本の中で、そこまでは重過ぎて触れることはできませんでした。しかし、モノと向き合うことの裏には、歴史というあまりに重い現実と、向き合って折り合いをつけなければならないこともある。そんなことまで伝わってくる、真っ黒焦げのお弁当箱と私自身も、向き合わされたのでした。
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平和記念資料館 企画展 原子爆弾ナリト認ム
展示の概要は、上記のようにインターネットを通して知ることができます。しかし、その空気は、その場に行かなければ、決して伝わることはないのだと思います。
*1 黒こげのお弁当箱
モノが語る歴史の事実。そしてその裏に隠された当事者の葛藤。物の陰に隠され圧縮され凝縮された心。心と物との葛藤の末、それがどうあるべきかを選択する。物と心の関係なんて簡単に言い尽くせるものじゃない・・・
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再生した広島の街 宿泊のホテルから望む・・・・・
・中央に原爆ドーム。
・その横には想像を絶する衝撃にも絶えた相生橋。
<相生橋>
最後の架け橋は落ちなかった。
東から西から北から・・・
その中心に行くには、なくてはならない橋。
そのための特殊なT字型の橋。交通の要。
それゆえに目標とされ・・・・
しかし、すさまじい衝撃に耐えて残った。
被爆後、中心部への交通を支え、
人々の心の支えにもなった。
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関連
・広島原爆ドーム 平和記念資料館 ←この記事
・平和記念資料館 企画展 原子爆弾ナリト認ム
・平和記念資料館展示から
・イサム・ノグチ庭園美術館-平和への架け橋-
広島、長崎は原爆を落とされた地として、戦争の象徴のような場所になっています。ある意味、平和資料館で見た、黒こげのお弁当箱のような位置づけの場所ともいえるのかもしれません。それを感じたのは、松本に訪れた時のこと。なんとはなしに、しかし何か引き寄せられるように、開智学校裏の図書館に足が向かっていました。そこには、山間にひっそりと隠れるように配備された軍事施設の様子。あの戦争とこの地域がどう、かかわってきたのか。そして広島、長崎のあの惨状を伝える展示がなされていました。広島だけじゃない。長崎だけじゃない。各地各地にその爪跡が残されているのだということ。それを風化させないために維持しようとしている方たちが、ここにもいらして静かに静かに、発しているのだということ。私たちは象徴的なところにしか目が向いていなかったこと。平和資料館でボランティアガイドをされていた方の言葉が響きます。
「被爆して白血病でなくなった佐々木貞子さん。原爆の子の像として有名だけれど、貞子さんだけじゃない。もっともっとたくさんの知られざる貞子さんがいたことを知って欲しい。」
Posted by: honda | 2004.03.06 at 05:47
ボランティアガイドさんは、被爆2世の方でした。「おじいちゃん、父も被爆をして今も、それに苦しめられている。私も被爆2世として、今はなにもないけれど、ずっと、経過観察の対象となっている。今も、その傷跡を抱えて過ごす人がいることを知って欲しい・・・・」と。
そして、そののちに思いもかけないところから、声をかけられました。私が広島のことを書き綴っていたものをご覧になられていた方からです。「私も原爆二世なんです。広島のこと書かれてたでしょ・・・でも私は広島には一回しか行ったことないんです。」
お母様はそれを語ろうとはとしないそうです。語れないのだと思うと。そしてその方自身も、子供を広島へは連れていけないとおっしゃいます。広島でなく長崎に連れて行かれたそうです。
結局、うわべしか見えていなかったのだと思いました。当事者には重過ぎる出来事なのです。まだまだ、昔話にはできないという現実。
なぜ、企画展、通りすぎてしまうの?その表面的に見えていることだけでしか判断していませんでした。無関心なわけではない。正視できないのかもしれない。それは、当事者でなければわからないこと。言葉や声、文字には表しきれない感情がそこに潜んでいる・・・・・
Posted by: honda | 2004.03.06 at 08:32
誰にあてるでもなく、広島行きのことをポツポツ、書いて投げ込んでいました。そこで見てきたもの、聞いてきたお話。そしたら、ひとり・・・2人・・・とメッセージが寄せられました。自分と広島とのことを振り返りながら、いろいろ考えていたと・・・・・・・誰もが、心のどこかで平和を願っているのだと思います。でもその気持ち、いつもちょっと奧の方に押し込められていて、埃をかぶってしまっているのかもしれません。もし、何かのきっかけで風が吹けば、それが現れてくるのではないでしょうか?ここに書き留めたことが、埃をはらう風のきっかけになればいいかなぁ・・・なんて思いながら、またここに書き記しています。
Posted by: honda | 2004.03.07 at 08:53
企画展と同時開催されていた原爆の絵の展示。
被爆者の高齢化に伴い、その記憶が薄れてゆく。語る人が減る。その中、被爆体験を絵で残すことを呼びかけられ展示がなされていました。原爆被害の実相を伝えるために・・・
この展示の中で強く印象に残ったのは、市内を走る路面電車を扱った絵でした。市民の足を支えていた電車の復旧は、人々の心を支えたといいます。
地方の都市部を訪れると路面電車という交通網が整備されていることに気づかされます。さながら東京の地下鉄網といった感じでしょうか。その路面電車を見ると、なぜか、この広島の電車が思い浮かべられてしまいます。
交通網は人と人の心をつなぎ、その復旧が人の心を支えていたのでした。
http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/exhibit/exh0303/exh03032.html
Posted by: honda | 2004.03.18 at 10:55
原爆投下の目標とされたというT型の相生橋。その形ゆえに目標にされ、原爆のすさまじさを物語りながらも、落ちることはありませんでした。交通の要であったこの橋が耐えたこと。
そのことが、人々を支えたそうです。路面電車同様、川にかかる橋。この架け橋は人々の心の架け橋にもなったのでした。
Posted by: honda | 2004.03.18 at 11:00
声をころし静かに発していた方が眠る。
今朝、訃報を知りました。
http://www.asahi.com/obituaries/update/0324/001.html
Posted by: honda | 2004.03.25 at 07:41
2004.7.10
きくちゆみさんによる「なにがあっても共に生きる道を選ぼう テロ・戦争・暴力が蔓延する時代にどう生きるか」という記念講演に参加させていただきました。
http://honda.typepad.com/owl/2004/07/04071.html
情報とは何か?
私たちは何も知らない。知らされていない。知ろうとしていない。
そして、誰の心の中にも持っている平和を望む気持ち。
でも、すぐにそれは埃をかぶってしまう。
うっすらかぶった埃を払いのけてくれた気がしました。
Posted by: honda | 2004.07.11 at 17:06
仕事を通して情報を発する立場になり、伝えたいことをつたえきれないというジレンマを感じるようになりました。それを補完する媒体としてブログというシステムを選択しました。
「仕事」で抱えていることや、「日常の中」で「自分の中」で抱え続けていること。それを発して行く場所として・・・・・
私の見てきた広島のことを、日記でダラダラとりとめなく書きつづっていました。何かを伝えたいとか、見て欲しいとかでなく、単に自分の見て感じてきたことを忘れないための記録として記しただけのものでした。
ところが、その書き込みに、何人かの方からメールが届きました。
その反応に、発することの意味を見いださせてもらえた気がしていました。今は、とりとめないメモ状態だけど、もう少し形を変えてまとめよう。そんな思いを抱かせてくれたのでした。
ブログというシステム知り、それを手にしたときに、まず試みたのが、この広島に関して散乱した状態のメモを、一カ所にまとめるという作業でした。
http://www.myprofile.ne.jp/alaponta+blog+2004+07+5
その作業は、発することによって、自分自身にかぶりがちな埃をはらうこと。そして、それを目にした人が、一人でもいいから、ちょっと平和のことを考えるきっかけになってくれたらなぁ・・・そんなことを思いながら作業していたことを、また呼び起こさせる講演でした。そしてまた、熱してすぐ冷めてしまう自分自身と向き合わされる講演でもありました。
とりとめない記録を書き綴っていた時に、寄せられたものを一部、ご紹介・・・・
Posted by: honda | 2004.07.11 at 17:21
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○○○が出張&プライベートで、各地を訪れている日記を読むと、「ああ、あそこも行ったなあ」とか「そこには行ってないなあ。どんなとこやろ」なんて思いながら読んでいます。広島の祈念館は私も行きました。あなたの日記を読んでその時の気持ちを思い起こしました。
とまあ、時に用事があったわけではないのですが、たまには○○○への書き込みでなくて、○○○に直接メールもいいかなと思ったので。じゃまた。しっかり日記は更新してねぇ~。楽しみにしてるよ。
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○○○さんの時代は修学旅行は九州だったんだよね?
私たちの時代は山陰山陽地方だったので広島も修学旅行で訪れました。「平和記念資料館」ものすごい衝撃を受けました。見終わった後にすぐ昼食だったのですが(そのスケジュールもスゴイが・・・)
全然手がつけられなかったことを覚えています。時々TVなどで記念館の内部の様子を拝見しますが、私達が訪れた20年前に比べ少しづつ変わったきているように思います。
あの日見たことを話している人を画像で残したりなど風化させない努力をしているそうですね。非常に大切なことだと思います。
毎年8月6日頃にNHKでは特集を組んでいますが近頃では、番組の取り上げ方もずいぶん消極的になったように思うのは私の気のせいでしょうか?
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○○○さんの広島の原爆ドームと平和について感じたことの日記を見て。
遠い親戚が居た為、幼い頃(幼稚園前頃かな)一度広島に行った記憶があるが府中という田舎で蓮華畑とタンポポと牛がいたことしか覚えては居ない^^
写真で宮島に行ったのか・・・と知っているだけ。
いつか行こう、行こう、と思いながらまだ広島行きは実現していない。
私も何人か友人が広島にいる。
尊敬できる先輩も広島にはたくさんいる。
会社に入ってしばらくしてから、言葉では言い尽くせないほどお世話になった他社の広島の先輩がいた。彼女からはとても大きな影響を受けた。
彼女は赤ちゃんの時、終戦を迎えた被爆者だった。
仕事も生き方も前向きで、いつも凛として、人の痛みのわかる温かく優しい人だった。
彼女が被爆の影響か?ガンで亡くなってもう10年近くが過ぎた。
もうすぐ私は彼女の歳を越えそうだ。
今の私は、少しは彼女の意思や生き方に近づけたのだろうか・・・
戦争は2度と興してはならない。それを言うことは簡単。
実際にそのために行動を興してみることは難しい。ましてや今、一歩間違えれば戦争に参加してしまうことになってしまいそうなこの国で・・・
身の回りの小さなことからでも、何かを始めることからスタートできたらと思う。
まずは憲法9条を大切にしたい。一年に一度くらい、広島やなにかのキッカケでそのことを考えてもいいだろう。
その為にはまず今度の日曜日、投票に行くことかな^^;
今年は○○○さんの広島日記のおかげで<平和について>自分自身で再度考える機会が持てた。感謝。
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なんだか、うれしかった。
読んでもらおうと思ってたわけじゃなくて、勝手に自分が書きたいから書いてただけ。自分が感じてきたことを、忘れないように、記録に留めたかったから書いてただけだったから・・・・・
それを見て、何かを感じてくれる人がいること。メッセージをくれたこと。
発することは、何かを意図しなくても、その先に受け止めてくれる人がいるということ。
Posted by: honda | 2004.07.11 at 17:39
戦後60年に向けて、様々な特集がなされている。
原爆慰霊碑の製作を任されながら、
2つの祖国を持つことでかなわなかったという
イサムノグチ。
そのイサムノグチが晩年を過ごしたという
香川の牟礼。
今、その地に訪れながら、広島を特集された
ニュースを目にした。
広島であの日を語り次いできた人。
しかし、最近、その受け止められ方が変わってきたいう。
耳を傾けられない。原爆ドームは単に観光名所。
修学旅行でも、原爆の学習を組まれることがなくなった。
携帯で写真を撮っただけで立ち去る。
広島の原爆投下の日を知らないという広島の若者たち。
戦後、60年。
若者にとってそれは、過ぎ去った過去の出来事に
なってしまっているのだという。
Posted by: honda | 2005.08.05 at 08:17
鹿児島の知覧を訪れました。
ここは、特攻隊の出撃基地です。爆弾搭載の飛行機とともに、肉弾となって、ここから飛び立った若き隊員の遺品、記録が知覧特攻平和会館に残されています。
会館入り口に入って目に飛び込んできたのは一台のピアノ。
これはもしかしたら・・・・・
戦後50年と言われた年に知った映画「月光の夏」のピアノと同型のものでした。
音楽学校出身の特攻隊員は、『死ぬ前にもう一度ピアノが弾きたい』と、当時、めずらしかったグランドピアノを所有していた小学校へ10㎞の道のりを歩いて訪れたというお話です。日本には2台あるだけで、ここ知覧と小学校です。
最後の演奏はベートーベンの『月光』でした。
戦後50年という節目にこの話を知りました。
そして、60年という今年、そのお話のピアノに出会うことができました。
忘れないで下さい・・・・・
無言のメッセージが届けられたような気がします。
知覧という場所について次のように語られていました。知覧には3度訪れて、初めて事実を把握できると言います。
東京健生病院奨学生企画「ピクニックセミナー」より
http://www.tokyominiren.gr.jp/search/tms4/s02_2syougaku.html
「知覧は3度来ないとだめなんだ。1度目はショックで泣くだろう。2度目も悲惨さに涙するかもしれない。そして3度目に冷静に事実を見つめ、憤りを感じるだろう。私たちは過去を嘆いたり悲しんだりするだけではダメなんだよ」
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戦後50年 60年・・・・・しかし、「戦後70年はない」という声を聞きました。それは、生き証人がいなくなってしまって、風化してしまうからだといいます。
生き証人がいなくても、それを伝えていく物、人の存在・・・・・
知覧の庭訓より
http://www.mskj.or.jp/news/9509jkkai2.html
>「やはりこんまち(この町)が好きで、よそに出れんかったとですよ」
その町の歴史の中で生まれて生活して、伝えていこうとする人の存在、力を強く感じさせられながら、この場所をあとにしました。
Posted by: honda | 2005.09.06 at 10:58
僕は、初めて広島を訪れた時の気持ちをよく思い出します。それだけ、その印象は凄かった。何日も頭から離れなかった。一瞬のうちに、大やけど、後の後遺症に亡くなられた方々の痛い程の思いが痛いほどに感じる。
Posted by: まさのり | 2005.11.15 at 21:35
留守をしており失礼しました。
ふっと、何かがきっかけとなって、体験したわけではないあの広島のあの日を思い出されることがあります。それは、きっと、忘れちゃいけないよ・・・・忘れないでねってっていう、メッセージなんでしょうね。
最近では、イサム・ノグチ展を見たことが、広島を思い出すきっかけになりました。平和を願いながら、広島にかけられた橋の本当の名称を知りました。
それは『生きる・死ぬ』だそうです。
平和大橋 西平和大橋
http://www002.upp.so-net.ne.jp/hidk/mft/arch/005/
また訪れる機会があったら、目に焼き付けておきたいと思っています。
Posted by: honda | 2005.11.19 at 00:01