メディアは真実を伝えているか 2003.7.5 [土]
昨年のことになりますが、「民放・東京支社に働く女性の集い」に参加させていただきました。 メディアに関わりながら、かかえるジレンマがあり、記念講演をされた鳥越俊太郎氏にその問題を質問させていただくことができました。
テレビは真実を伝えているか・・・・・・
鳥越氏のお話は報道におけるお話でしたが、情報番組においても、同じようなことを感じさせられておりました。番組作成の上で意図しない流れになってしまった場合、こちらはどう対処してゆけばよいのか・・・・・・・
テレビは編集が行われた上でOAされます。OAまで最終的にどのような構成になるのか把握できません。名前でお仕事をさせていただいた場合、それをどうとらえてゆけばよいのでしょうか。
とくにニュース番組で取り上げる情報については、とても心配になることあります。番組には、制作など様々な人がかかわり、場の流れが次第にできてきて、その流れに逆らいにくい状況に陥ることがあります。走り出してしまったら、それにストップはなかなか掛けられない状態になります。
しかし、鳥越氏によれば、できあがったものに対して何か問題があった場合は、制作過程がどうであれ、そこに名前を連ねた人、表に立つ人に跳ね返ってくるもの。その自覚の上で、ストップをかけるべきところでは、かけなくてはいけないとのことでした。
打ち上げの場では、会場にいらした方からも、その件について、私はこう思うと、ご意見をいただきました。捉え方は、一通りではないということなのです。それらの様々な声に耳を傾けて、自分で決め、自分で選択をしなければいけないということなのだと思いました。
------------------------------------------------
こんな話を漏れ聞きいたことがあります。
ある老舗園芸番組。ある植物がテーマになり、それを育てている視聴者が登場した時の話です。その樹木に花が咲きました。しかし、それは花ではなく苞と呼ばれる部位です。しかし、制作側からそれを、「花と言ってください・・・・」と言われたそうです。出演された方は、納得できなかったのだけれど、しぶしぶそれを飲んだそうです。
出演者がそれを飲んでしまえば、裏でどんなやりとりがされていても、出演者の言葉として、知識として伝わってしまいます。結局はそれを受け入れてしまった、本人に戻ってきてしまうのです。それがいやなら、拒否する勇気が必要です。
ところが・・・・・・・現場では、それがなかなかできない状況であることは、容易に想像できます。
たった数秒のことです。花ではなく苞。その一言では、ダメなのでしょうか。「苞って何?」秒単位で編集されるテープに、その部分が必要になるのかもしれません。それよりも、盛り込みたいことがあるから?その事情もわからないではありません。しかし、そんな細かいことまで伝えても、視聴者はついてこれないからというのは、よくありがちです。
でも、この番組の性格を考えれば、植物に対するきちんとした情報を伝えるのが使命ではないのでしょうか。ならば見ている側がそれに気づいたらのなら、そのことに声を上げなければ、正しい情報はいつまでも伝わりません。送り手側は、この程度で充分。裏を返せば、視聴者なんて、この程度のもの。と思われてしまうのではないでしょうか。
最低限ルールとして、明らかに間違っているとわかっている情報を、流してはいけないのではないでしょうか?
-------------------------------------------------------
私の仕事においても、ここの部分は、こういうことにしていただいていいですか?そういう場面がしばしばあります。う~ん・・・・・それ違うよな。本意じゃないんだけどな。でも、ここで、突っぱねちゃうとな・・・・・この先、やりにくくなるし。
そんな場面は、幾度となくありました。そして受け入れてしまったその言葉は、自分の言葉としてOAされていきます。これもいたしかたないのかなと。自分の中に一つの基準を設けました。明らかな間違いについては、受け入れないこと。
「考え方」の部分を述べる時、それについて基本的に「間違い」ということはないと思っています。人それぞれの捉え方であり考え方なのです。ですから今までは、状況を判断して受け入れることが多かったのでした。「○○するにあたって、○○が一番大事。」と言ったような内容です。言い切ってくださいと言われます。
あるいはお片づけ手順を示す場合、映像効果としてこ~んなにいっぱいありました!という映像的インパクトが求められます。従って全てのものを引っ張りだして見せるという手法が取られますが、実際、こんなことをしては、そのあとのお片づけは収集がつかなくなってしまいます。しかしテレビ、雑誌というメディアの特性を考えた時、それはいたしかたないことと割り切ります。
お片づけの手法はそれぞれですから、「こうでなければならない」はないので、割り切って対応します。ですからそれらをつなぎ合わせると、言ってることに一貫性がなくなってしまうことがおこってしまうのです。でも最近は、Noのジャッジを少しずつですが、するように変化してきました。まだ、状況的にそれができないことも発生しますが、少しずつですが受け入れられてきているのを、感じているところです。
少しずつでも、声に出していれば受け入れられるようにもなるということなのでしょうか。そして見る側も賢く選択して、声をあげるべきところではあげる必要があるのかもしれません。
番組には制作意図があります。届けたい視聴者像もあります。そんなことを押さえて番組を見ていると、その背景にあるものが見えたりするものだと思います。
-----------------------------------------------------
関連:<情報とは? メディアは真実を伝えているか>
・第21回 民放東京支社に働く女性の集い(7/12)
「なにがあっても共に生きる道を選ぼう」
・第20回 民放東京支社に働く女性の集い(7/12) ← この記事
メディアは真実を伝えているか
リレートーク(7/13)
・第19回 民放東京支社に働く女性の集い(7/12)
長野智子さんによる報道の現場のお話
・女性が働くということ>(7/13)
・女の人が働くことについて(01.3.16)(7/14)
・100年の物語から(7/14)
生活情報、趣味情報は、どこに向けて、どんな人に発信してゆけばよいのでしょうか。人は、どこまでどれだけ知りたいと思っているのでしょうか?
知りたい人がいる一方で、そこまでの情報は必要ないと思っている人たちもいる。ではその比率は?????
「間違った情報については、声を上げるべき。そうでなければいつまでたっても変わらない。制作側の意識も変わらない。」
そんなことを感じさせられた昨年の民放の集いでした。
--------------------------
しかし、民放という成り立ちを考えると、スポンサーがあってそこが狙うターゲットがあって、そこに適したものを送り込むことによって成り立っている。そうした性質のものであることは、紛れもない現実として存在しているわけです。
その現実とどう折り合いをつけてゆくのかは、そこにかかわる個々人の問題でもあり、組織の問題でもあるわけです。
それぞれが持つメディアの特性をつかんで活かして活用してゆく。与えられた条件の中でできること、できないことを明らかにして、その中で可能な限りのことを選択してゆくことなのかなと思うのでした。
私にとってその一つの選択が、インターネットでありブログという手段にたどりついたのでした。
Posted by: honda | 2004.07.13 at 12:14